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進捗100%(2018.07.22更新)

『交換書評』第3回目です。今回はいよいよ進捗率100%、つまり完成原稿の感想になります。全貌を表した作品をどう読み解くのか。渡山と斜田の互いの評をお楽しみいただければと存じます。作品の根幹たる戯曲ですが、「書かれた劇」としてはこれで完成としても、「演じられた劇」とするためには、ここから変換され、立ち上がっていくのです。俳優、演出、照明、音響、美術、衣装、小道具、映像、劇場でみなさまを最初にお迎えする受付、全ての部署がこの戯曲を演劇にするために動いております。是非、上演をご覧くださいませ。

『ミナソコ』進捗100%感想文/書いた人・渡山博崇

―その館の第一印象は、箱だった。海を見下ろす丘の上にポツンと立つ灰色の立方体。―

これが『ミナソコ』の舞台となる館、水底館(スイテイカン)の描写だ。
箱、である。
箱の中はなにがあるのだろう。
ここは水底家の人々が暮らす家であるのだから、生活がある。
暮らす人々の想いがある。
箱は今にも溢れそうなくらい、その人たちの気配が充満している。
しかし、そこには何もないようにも思える。なにもないのに、なにかはある。
そしてここの人々、登場人物たちの内側にも空洞がある。
様々に押しよせる感情や欲動は、全てその空洞に引き込まれ、飲み込まれていく。
空洞の箱。
それがこの水底館であり、水底館に集う人々が内に抱える、闇の容れ物なのだ。

冒頭部分を読んで、これは館モノのミステリだと書いた。しかしそれはハズレなのかもしれない。確かに謎は提示される。しかし、更に様々な謎を残して、このお話は終わる。そこには意図された曖昧さがあり、私たちには幾通りかの解釈が許される。その解釈の道筋を辿って、観客が発見するのは、とどのつまり自分自身の物の考え方だ。
観客が自分を発見するための表現。廃墟文藝部の斜田章大の作品が小説的だというのは、文語的な語り口だけではなく、そういった表現に依るところが大きいのではないだろうか。
空洞を抱えた登場人物たちを表現する俳優たちも、どこか空虚な依り代になるのではないかと想像する。観客それぞれの想いを受け入れ、それを肯定も否定もしない、大きな容れ物になる。観客の中では、観客が想像するごとに変容する。しかし俳優は能面を付けているかのように、変わらない「箱」として在る。ただの想像だ。残念ながら観に行くことは叶わない、僕の代わりに、みなさんには目撃して欲しい。

 この『ミナソコ』は『うつくしい生活』と親和性がある。童話を元にしているということもさることながら、「書くこと」「書かれること」についての執着や、「贖罪」と「食材」という一見冗談のような言葉に表される、罪の在り方についても似たところがある。もちろんそのアプローチは全くもって異なるし、それらについて話したら喧嘩になるくらい意見が合わないかもしれない。しかし同時期にそこに取り組んでいるのは、劇作家としての姿勢に通じるところがあるのか、それともこれが同時代性ということなのか。
 
 そこを検証するには、両作品を観ることが必要だ。強引に宣伝にからめているようだけど、本当にそう思う。
 

『うつくしい生活』進捗100%感想文/書いた人・斜田章大

はじめに一言。

交換書評の最終回がこんなにギリギリになったのは、完全に僕の責任です。ギリギリまで書いていました。いまもギリギリいいながら、演出を試行錯誤してます。命を燃やしてる感じしますね。

さて星の女子さん「うつくしい生活」ですが、前回の交換書評の時点で最後まであがっていますので、もちろん結末はすでに知っています。

ですので、今回なるべくその辺りの情報を忘れて、真っ白な気持ちでゆっくりと頭から何度か読み直してみました。そのうえで感じたことをつらつらと書こうと思います。

まず、想像以上に、「うつくしい生活」というタイトルが重くのしかかる作品だなと感じました。生活とは、「生きる」に「活きる」と書きます。寝て起きて働いて食べて排泄してまた寝る。その繰り返しであり、最終的に死へと収束する言葉だと思います。

グリム童話の「ネズミと小鳥とソーセージ」をテーマにした生活の物語。思えば、今までの星の女子さんの作品も、生活を描いたものが多かったと思います(どんな作品も生活は描くだろうと思われるかもしれませんが、ここでの生活は、狭い意味での「日常」、あるいはルーティンワークと捉えてもらえたらと思います)。

今回は今まで取り組んで来た「生活」というテーマに、改めて真正面から挑んだ作品なのだと感じました。

世界は変わる。環境も変わる。生活も変わる。それでは、生活を営む者たちは? そんな物語だと思います。

また、星の女子さん……というより、渡山さんの作品は捉えどころが無く、どうやって作品を作っているのか分かりづらい作者だというイメージがありました(そこが魅力の一つなのだとも思います)。

ただ今回の交換書評の前に、「文乃に聞く」という企画で、対談させてもらいまして……その対談のおかげで、渡山さんが大事にしているものが少し分かった気がしました。なので、「うつくしい生活」を見る方は、是非、「文乃にきく」を先に読んでほしいなと思います。作品の理解が深まると思います。そしてついでに、ミナソコも見に来てください。大事なことなのでもう一度言いますね。ミナソコも見に来てください。ついでに。

 

それでは最後に、この書評を読んでいる人が最も聞きたいであろう疑問に回答を。

「この作品は面白いのか?」

答えはイエスです。少なくとも、僕のように、今までの星の女子さんの作品が好きな人は確実に楽しめるでしょう。戯曲の段階で「ここ上演したらどうなるんだ?」ってところが多々あるので、生で見ることができないのが悔しくて仕方ありません。僕の代わりに是非、見に行ってください。そして、ついでにミナソコも来てください。大事なことなのでしつこくいいます。ミナソコもついでに見に来てください。

 それでは、最後に、相も変わらず、ネタバレになりすぎない範囲で、印象に残った「うつくしい生活」のセリフを紹介して、交換書評最終回の幕とします。

「茶化してない。鳥は鳥のままで、鼠は鼠のままで、ソーセージはソーセージのままで、どうしていられないのかしら」

まとめ

渡山 いやあ、おつかれさまでした。

斜田 いやいや、おつかれさまでした。

渡山 毎度毎度、ホンがあがるかどうか、ひやひやするよね。

斜田 まったくです。今回も死ぬかと思いました。

渡山 そうそう。死ぬ思いで書いても劇団員はすぐ「稽古しましょう」だもんね。

斜田 え? うちは脱稿したらみんな「おめでとう!」って拍手してくれますよ。

渡山 え?

斜田 おもしろいね、最高だねって言ってくれて、最終的にはケーキが出てきます。

渡山 お誕生日なの?

斜田 まあ戯曲の誕生日だからじゃないですかね。

渡山 マジか。

斜田 冗談ですよ。(吐き捨てるように)

渡山 ……僕は君がわからないなあ。

斜田 わかってくれとは、言いませんよ。

 

おしまい。

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